面倒くさがり屋のための読書メモの条件

目次

熟読しない読書に”メモ”は必要だ。でも面倒くさい

最近、大学の勉強やら趣味やら興味やらの影響で読書をする時間がとても増えた。元々本は読む方だが、右も左も本だらけのペーパーマウンテンが出来たのは初めての経験である。そして、雑多な本とともにその山に積み上げられているのが「読書メモ」という代物。これは本を読みながらその内容を適当に書き留めいつでも引き出せるようにし、ちょっとしたひらめきを得るための道具だ。加えて言うと、これまでの私の読書体験には登場しなかったニューフェイスでもある。というのもこれまでの私の読書というのは、いわゆる多読でなく熟読、つまり「気に入った本を何回も読む」というものだったからだ。

人は忘れる生き物である。そして、それをするには何回もそれを思い出す必要がある。

昨日の夕飯すらアスタラビスタの銀河系にある私だが、(テキストや教科書は別として)こと本に関してはその熟読による「思い出し」のおかげか、あまり内容を忘れることがない。しかし、机の上に床にベッドに週ごと積み上げられていく本の山を切り崩すためには、その「熟読」はあまりにも非力である。もちろん時間が有り余っているのならば、熟読でも構わないのだが、色々とあって後3ヶ月の間にまっさらな平地にしておきたいのだ。

そこで、そのための切り札として「本の内容を忘れないため」にメモを導入したというわけだ。しかし、この読書メモというのはなかなかの曲者である。これまでのような脳みそ直輸入法であれば、肌身離さず持ち歩けるし、それでいてそれらをニューロン的にメモの原本、あるいは他の本、さらには映画やニュースなどといった多くの情報と無意識のうちに結びつけることが出来るので忘れにくかった。そして、往々にしてその自分でも把握していない無意識の「つながり」が何かのはずみでアイデアになったりするのである。

しかし、メモというのは、物理的に原本とその他の情報から切り離された存在であって、故に、それ自体が忘却の彼方に誘われてしまう。つまり何が言いたいかと言うと「メモ自体を無くしてしまった」り、このメモが「一体何についてのメモだったのか」すら忘れてしまうことがよくあるということだ。

もちろん、きちんとメモを整理整頓し、本の内容とメモの文脈が分かるように書けばよいのだが、そういった小綺麗なものは私には向いていないようだ。一度整理したメモも次の瞬間には吹っ飛んでいて、原本に挟んでも気づくとそれも吹っ飛んでいる。ページの番号を書いたは良いもの、本の題名を書き忘れ、題名を書いたは良いものの、色々な本や論文とごちゃまぜに書くので見返しても何がなんだかわからない。どこかのメモに書いたことがパーツとして必要で散乱したメモを引っ掻き回すも、そのうちその「メモサーフィング」が面白くなってしまって、メモ探しなんてどうでもよくなってしまう。結局、見つかったは良いものの「なぜこのメモを探していたのか」忘れてしまう。

「メモサーフィング」については、新しい発見もありエビングハウスの忘却曲線よろしくな効果もあり、前述の「つながり」を作るという点においては強力な武器となる。だから、一概に悪いとは言うことは出来ないが「必要なときに引っ張り出せるメモ」とはかけ離れた存在なので良いとも言えない。

ならばと、次は本に直接メモを書き込んでみた。これならば本とメモの「分離」は起こらないし、メモか引用元のどちらかを覚えていればそれにたどり着くことも容易である。また、この「書き込み」というのも(教科書の落書きを除き)これまでの私の読書には存在しなかったニューフェイスであるのだが、こちらの「メモ」は大成功だった。本とペンがあれば、いつでもどこでも始めることも振り返ることも出来るし、何よりも「無くならない」。これは「良いものだッ」と思ったのもつかの間、「書き込み」故の障害が私の眼の前に立ちはだかるのであった

「書き込み」は「書き込める」本しか「書き込めない」

まったく初歩的な落とし穴である。現在私の部屋の各所に前衛的に配置してある本は、すべてが書き込みに対して寛容なイエスマンというわけではない。図書館から借りた本は当然書き込めないし、Kindleもメモに対応したScribeモデルを持っていないので無理、また文庫本サイズの本には余白がほとんど無い。結局、「書き込む」事のできる本は全体の20%ほどである。たかが数百円の違いで文庫本を買ってしまった私を説教してやりたいが、あいにく私は自分に甘いのだ。

書き込めない本はこれまでのように、別途メモ帳か何かに書き込もうかと思ったが、それはそれでややこしくなるばかり。何より「書き込み」の良さに気付かされてしまった後では、どうも身が入らない、というか面倒くさくなってしまった。まったくどうしたものか。

整理整頓に関しては、iPadのGoodNotesや純正メモを使うことによって解消出来そうだが、私は「メモ」をデジタルのノートで取るというのはあまり気が進まない。というのも、個人的にデジタルノートのディスプレイには、なんというか、こう「思考の膨らみ」を阻害するある種のテレパシー作用があるのではないかと思っているからである。これは、別に陰謀論的な何かではなく経験に基づくものだ。例えば落書きもそのひとつで、高校時代はあんなに落書きだらけだったノートが、大学になってiPadつまりデジタルノートを使い始めてからというもの、まったく筆が進まない。いや、これに関しては良いことなのかもしれないが、授業の内容だけが書かれたノートというのは、それはそれで退屈である。

それに、そういった個人的な感覚を抜きにしても、デジタルノートが紙のメモに勝らない点がある。それは、一度に表示できるメモの量がハードやソフトの面でで制限されてしまうことである。紙のメモなら、極端に言えば自分の視野全てがキャンパスになる。そこまでメモを広げて置くことは実用的ではないが、自分の机の半分ほどをパーソナルな辞書として埋めることが出来るというのは紙のメモにしか出来ない大きな強みだ。(その結果が、紙の山なのだが…)しかし、パソコンやタブレットではモニタ分のキャンバスしか使うことは出来ないし、それ故に一度に表示できる可読性のあるメモが少なくなってしまう。紙よりも便利なところがある一方で、ある面ではどうしようもならないほど不器用なのがデジタルノートなのである。

※調べてみたところによると、実際に紙のノートはデジタルノートに比べ創造的思考が高まるらしい。

->参考:紙の手帳の脳科学的効用についてhttps://www.nttdata-strategy.com/newsrelease/210319/

さて、ここで一度私の、というか面倒くさがり屋の「読書メモ」の現状について一度整理してみたい。

メモ帳(メモ紙) 書き込み デジタル
ソースとのリンク x
整理整頓 x
メモサーフィン △(同一のソースであれば可能) x
本を選ばない x

つまり、私が求める究極の「読書メモ」は「ソースとのリンク」・「整理整頓」・「メモサーフィン」・「本を選ばない」のすべてを行うことが出来、それでいて尚且つ「面倒くさくない」方法であるということだ。こんな便利な代物は果たして世の中に存在するのであろうか?…

目次