この記事にはFF7関連の重大なネタバレが含まれます。
間違いなく傑作’だった’よ。でもね
FF7リバースは傑作になり得た名作だ。
これが、先ほどようやくストーリーを最後まで見終えた率直な感想。
もっと正確に言えば9割は傑作、そして残り1割、いや1時間が本当にクソだった。
それまでの80時間で私が感じていた「興奮」を完全に無に返すほどの、どうしようもないクソだった。
とはいえ100%文句のつけようのない完璧なゲームなんて存在しないので、ほとんどすべてが傑作なのならそれは傑作と呼んでも良いんじゃないかと思う気もする。実際、オープニング〜80時間はここ十数年の「ファイナルファンタジー」と名のつくタイトルの中で最高水準の部類に入ることは間違いないし、FF7リメイクプロジェクト第二弾の名にふさわしい素晴らしく秀逸な作品だったことは明らか。
けれど、最後の最後をどうしてあんな終わり方にしてしまったのだろう。
本当にそれまでは最高の旅だったのに
だから、傑作ではなく名作。
本当はFF7リバースを総括したレビュー記事を書こうと思っていたのだけど、あまりにもラストがひどすぎて書く気をなくしてしまった。
というわけで、この記事ではエンディングレビューと題して問題の「最後の1時間」にフォーカスしたレビューをしたいと思う。
終末の1時間前
では、それまで感じていた興奮を0にするどころかマイナスに変えてしまった原因、リメイク的に言えば「終末の1時間前」に何があったのか。
リバースや原作をプレイ済みの方ならもう察しがつくと思うけれど、それはやはり「忘らるる都のエアリス離脱イベント」である。
星を滅する究極魔法メテオを防ぐため、その対となるホーリーを呼び出そうと祈りを捧げていたエアリスがクラウドの眼の前でセフィロスの凶刃に倒れてしまうという衝撃的なイベントだ。
前作FF7リメイクは原作厨である「運命の番人フィーラー=…ナントカ」を倒したことによって、クラウド達が「運命の拘束」つまり「原作通りのシナリオ」を打ち破るかもね?という衝撃的なエンディングを迎えた。
原作のシナリオを変えられる?と、と、ということは
「”エアリス生存ルート”あるんじゃないの?」
原作をプレイした誰しもがこう思ったことだろう。
じゃあ、実際リバースでエアリスを助けることは出来たのか?
。
。
。
出来ませんでした。
「あぁ、こいつの言う「ラスト一時間の悲しみ」っていうのはエアリスが結局死んでしまったことなんだな」と思われた方
あながち間違じゃない。確かに「運命を変えられそうな材料が揃っていたのに結局助けられなかった、エアリスが死んでしまった」事はとっても悲しいことだ。
でも、少し語弊のある言い方にはなってしまうけれど私は原作通りの展開で良かったとも思っている。「生き残って欲しかった」という気持ちはもちろんあるけれど、そのイベントがあるからこそ後述のFF7のメインテーマがより深みを増すのだと思うし、もし仮に彼女が生存した状態で3作目が(リバースと同様に)ほとんど原作通りの展開で進むのならばそれはそれでなにか腑に落ちないところもある。
原作通りの展開で良かったのなら別にそれが「評価を下げる理由にはならないじゃないか」と思われるかもしれないが、
私がどうにも気になったのは生死どうこうではなくその「描写」の仕方である。
FF7のメインテーマ
さて、まず本題に入る前にFF7のメインテーマについて少し考えてみたいと思う。(フィールドBGMのことじゃないよ
真っ先に思いつくのは「星を救う」だろうか。FF7の対立構造を簡潔に表すと
- 神羅カンパニー:星の体内を流れる精神エネルギー(命)「ライフストリーム」を資源として浪費する大企業
- セフィロス:元英雄、とんでもない長髪。星の中のライフストリームを全部すすって神になりたい
VS
神羅とかセフィロスとかを倒して星とそこに住む生命を守りたい人たち。
- ソルジャー1stを自称する唯の一般兵、精神疾患持ち
- テロリスト兼シングルファーザー
- テロリスト兼バーテンダー
- スラムの花売り
- 人語を喋る犬
- 関西弁を喋る占いロボット
- ヘビースモーカーのパイロット
- こじらせすぎた警備員
- 泥棒兼忍者
という華やかなメンツ
ファイナルファンタジーVII解体新書から一部引用
という感じになる。つまり「星どうでもいい人達」と「星保護団体の人たち」との戦いなわけ。
やっぱり、FF7のメインテーマは「星を救う」かな
。。。
いや本当にそうだろうか?シナリオ上のな目的は確かにそうだと思うけれど、FF7全体を通してのテーマとしては50点。
星保護団体の物語なのに「星を救う」が50点?
じゃあ一体全体FF7のテーマってなによーっ
と、問われると
それは「命の尊さ」ではないだろうか?
作中にはいろいろな命が登場する。
- 命の源とのその浪費・消失(ライフストリーム・魔晄)
- 造られた命(セフィロス)
- 新たな生命の誕生(コンドルフォート)
- 自分の命(自身)を偽るもの(クラウド)
- たくさんの死(エアリスやアバランチメンバー、戦争、魔晄炉爆破、7番街プレート落下等)
- 想い(原作エンディング)
- 自分の命を賭してまでして他の命を守ろうとしたもの(エアリス)
様々な命の形を通して語られる”命の尊さ”これがFF7のメインテーマだと私は思う。
もちろん私は唯のしがないプレイヤーであってFF7を作った側ではないので絶対にそうであるわけではないけれど、原作をプレイされた方はなんとなくご納得いただけるのではないか?
こういう生命賛歌的思想はFF7のみならずFF10までのシリーズでは多かれ少なかれ盛り込まれているけれど、いい意味でも悪い意味でも大きな転換点となったFF7はそのテーマがシリーズを通してみても結構顕著にはっきりと現れていると思う。
指先がチリチリする。口の中はカラカラだ。目の奥が熱いんだ!
FF7は命の尊さをテーマの一つにした作品だからこそ、「生」と同等いやそれ以上に「死」が重く丹念に描かれている。
そしてそれを最も悲しく儚くそして克明に伝えるシーン、それが「忘らるる都のエアリス離脱イベント」だった。
祈りを捧げるエアリス、それを貫くセフィロスの刃。だらりと垂れる腕、エアリスの亡骸を抱えるクラウド
エアリスはもうしゃべらない…もう笑わない、泣かない、怒らない。 おれたちは…どうしたらいい?この痛みをどうしたらいい!? 指先がチリチリする。口の中はカラカラだ。目の奥が熱いんだ!
そしてエアリスのテーマが流れたままジェノバ=LIFE戦に突入
撃破後エアリスを水葬する
生という希望と死という絶望、生命の持つ2つのテーマが見事に調和した切なくとても悲しいけれど素晴らしいシーンだ。文章に起こしているだけで本当に目の奥が熱くなってくる。
原作でエアリスがパーティ内にいたのは大体20時間ほどで全体の進行度でいうと50%くらい、けれどそれでも大泣きしてしまった。
そしてかくいうリバースでは80時間もリメイクも合わせるのなら120時間もの間彼女と共に旅をした。時間という単位で言えばたったの6倍だけど思い入れというのは原作の何十倍にも膨らみまくった。(これはエアリスのみならずバレットやティファ、レッドXIIIも同様に
ゴールドソーサーの例のイベントも2回ともエアリスだったし(ティファを狙っていたのに)
これでもし彼女が死んでしまったのならきっと大泣きじゃ済まない、クラウド達が忘れらるる都に近づけば近づくほど「もうこれ以上進めたくない」という気持ちが増していった。
上では「原作通りの展開でも良かった」とかほざいているけれど、眠りの森を超えいざ’その場所’に来てみるとそんな事は全く微塵も思わなくなっていた。
「生きていたら物語が成立しないザックスだって(別世界ではあるけれど)生き残ったんだ、だからエアリスも多分助けられるだろう」とそう思い、そして一歩前へ踏み出した。物語の生まれ変わりを信じて
けれど、そこで私が見たのは「予想外の歓喜」ではなく「再びの悲しみ」でも無く「失望」だった。
リバースのそれは「一つの命の物語」ではなく「最後の見せ場として造られたイベントシーン」だったのだ。
それぞれの流れ
文句を言う前に原作とリバース版2つの「エアリス離脱イベント」の流れについてさらっと説明しよう。
原作
- 祈るエアリス
- セフィロスの凶行
- 倒れるエアリス(死亡
- 落ちていく白マテリア
- 「人形どうのこうの」の会話
- ジェノバ=LIFE戦
- 水葬
リバース
- ☆祈るエアリス
- ☆セフィロスの凶行
- クラウドがセフィロスの刀を退け刃を折る
- 「助かったー!!」と思ったら
- 実は刺さってました
- ☆倒れるエアリス(生存
- ☆落ちていく白マテリア
- ☆「人形どうのこうの」の会話
- まだエアリスは生きてるぞ!!(生存
- ☆ジェノバ=LIFE戦
- セフィロス1回戦
- ザックス共闘
- リバース=セフィロス戦
- 精神世界?ライフストリーム内?セフィロス2回戦エアリスと共闘(生存?
- 現実世界に戻ってくる、まだエアリスは生きている(生存
- 場面転換・結局エアリスは助けられなかった(死亡
- エンディング、仲間にはエアリスが見えないけれどクラウドには見えているし話してる
☆は原作と同じ部分
ゴチャゴチャしているけどリバースをクリア済みの方ならなんとなくわかっていただけると思う。
「命」の商品化
大事なことなのでもう一度、FF7のメインテーマ。それは「命の尊さ」だ。
そして、これももう一度、原作のエアリス離脱イベントはそのテーマを最も重厚にかつシンプルに描写した「FF7のすべてが詰まったイベント」だった。
けれど、27年越しに再び描かれたリバースのそれは「命の尊さ」というテーマがひどく薄くなった「盛り上がりのためのイベント」に成り下がってしまった。少々嫌味に聞こえるかもしれないが「エアリス死んじゃうかな?死んじゃうかな?どっちかな!?どっちかな!?あー死んじゃった」という感じだ。
原作もリバースも「エアリスの死」という結末は変わらない。にもかかわらずなぜこうも受け取る印象が異なるのか?それは人の死という概念に対してのアプローチが原作とリバースで根本的に異なることが原因だと思う。
原作の「死」の扱い方は割とドライ、「生と死の境」がはっきりと描写され、死んだ人は全くの「故人」として扱われていた。つまり漫画やゲームなどでよくある「死んだキャラクターがそばで見守っていてくれる」あるいは「なんとなくいる気がする」みたいなイベントは本当にわずかだった。(ミッドガル再訪時の教会とエンディングぐらいだよね)
この徹底的な「境」方針は7番街プレート落下で死亡したビッグスやウェッジ、ジェシーといった脇役のみならず、物語の最重要人物の一人であるエアリスでさえ徹底されていた、そして、だからこそプレイヤーは確かに彼らの「死」を実感しそして「命の尊さ」を痛切に感じる事ができたのだ。
けれど、リバースではその線引があやふやだ。ゴールドソーサーのエアリスがテーマソングを歌うシーンでは死んだはずのビッグス・ウェッジ・ジェシーが精神体?としてその場にいるかのように出てきたり、あるサイドクエストでは完全に話しかけてきたり、正直「ん?」となる事が多い。
そしてこの掴みようのない微妙な違和感だったものがリバース版エリアス離脱イベントではっきりとした拒否感になって現れた。
リバースは彼女の死を単なる玩具にしてしまったのだ。
原作の離脱イベントは2分ほどで完結する。ボス戦を含めたとしても10分ほど、そしてこの一瞬に「命の輝きと儚さと、そして尊さ」を見事に描写してみせた。
しかし、リバースは彼女の死とプレイヤーの心を45分もかけて「生と死」の間で揺れ動かし続け、結局最後にはその45分の波乱は何だったのかと思うくらいにあっさりとサクッと一瞬で彼女を殺してしまった。
これはたまったものじゃない。ひどすぎる。
イベントが長いことは全然いいんだ、彼女の死を丹念に描いてくれさえすれば。けれどタダ長く荒くまるで「見せ場」のように造られたそれは原作とはにて非なる全くのおふざけだったと思う。
最初にして最後の興奮
文句を言う前にまずリバース版離脱イベントの良かったところについて話そう。全体を通しての感想は紛れもない紛れもない「失望」だけれど唯一このシーンはここ十数年で最大の興奮を私に与えてくれた。
セフィロスの凶刃が今にもエアリスを貫こうとしたその瞬間。クラウドがなんとセフィロスの刀を退けたのだ!!(しかも剣先を折りさえもした!)これは本当に興奮した!!運命を変えたんだ!!とそう思った。
けれどその5秒後、なんだが画面がビビッとして急に地面に出血が広がりだす。何が起こったのかわからなかった。確かにエアリスを守ったはずだ。そしてポカーンとした私を置き去りにして、次の瞬間にはセフィロスがエアリスの体から刀を引き抜くカットが映し出される
そこからは絶対に二度と見たくなかった同じ光景
倒れこむエアリス。落ちていく白マテリア。エアリスの体を抱えるクラウド
全くあの時と一緒だ。
そうクラウドは私はエアリスを助けられなかったのだ。
そこからセフィロスがクラウドに原作同様「人形がどうたら感情がどうたら」言ってたと思うけど、正直頭に入ってこなかった。だって彼女はまた死んでしまったのだから
。。。
と思っていた矢先、その最後に希望はあった。なんとまだエアリスに息があるのだ。たった数秒の間に数年で最大の興奮がまた更新されるなんて、やるじゃんスクエニ
「待ってろ」とクラウドがエアリスに語りかけ、そしてジェノバ=LIFE戦へ
ここまでは良かった。ここまでは傑作だった。
けれどここから紛うことなきクソが始まる。
感情の賞味期限切れを起こすラストバトル
ラスボス戦、それはRPGにおいて最も大切な部分の一つ。
原作通りに行けば、ジェノバ=LIFEがラスボスになる訳だけれど流石にラスボスを務めるほどの格はないのであくまで彼女は前座。大トリは前作同様セフィロスが務めてくれる。しかも原作のラスボス戦第1形態リバース=セフィロスの形態もお披露目してくれるのでサービス精神旺盛。
さらに、ザックスまで登場しクラウドと共闘までしてくれる。これはテンションアゲアゲだ
原作と同様ジェノバ=LIFE戦では「エアリスのテーマ」が流れる。エアリスは死んでこそいないが(戦っているこの時は’まだ’わかってない)セフィロスに擬態したジェノバ=LIFEに刺されてはいる訳で、パーティメンバーのみならず私のリミットゲージもMAXになるのは必然。(クラウドは原作と違ってリミット溜まってなかったね)バレットよろしく「こんやろー」と心で叫びながらポチポチしていたわけなんだけれど、でも途中でふとあることを思い始める「いつ終わんの?これ」
部位破壊>ムービー>操作キャラ変更>部位破壊>ムービー>操作キャラ変更>部位破壊>ムービー>操作キャラ変更>ボス交代>ムービー>部位破壊>操作キャラ変更>ムービー>部位破壊>操作キャラ変更>ムービー>ボス交代>操作キャラ変更>ぶいetc…
ずーっとこの繰り返し。多分10連戦ぐらいしたんじゃないかな
最後にエアリスと共闘することになるのだけれど、正直そのときは「怒り」や「悲しみ」といった感情は冷めきり「あーやっと終わりそうだな」というため息が漏れてしまった。これは単に私の集中力の問題かもしれないが、それにしても長すぎだ。
セフィロス=リバース戦とか同じことをを別パーティーで3回ぐらい繰り返さなかっただろうか?バトルが長いのは百歩譲って気にしないとしても、やることが単調すぎて中盤以降は、特定の攻撃に特定の返しをして部位を破壊する作業の繰り返し。。。デバックかな?
ただ、作る側の気持ちもわからなくはない。ジェノバがラスボスじゃつまらないし、ザックスも使いたいし、セフィロスも出したいし、エアリスも…って感じで膨らんでいった結果こうなったのかもしれない。
ラスボス戦というのは作品の中で一番手が込んでいて華やかであるのは”勝手に幼馴染の家に上がり込んでピアノを弾いてタンスを調べてポケットに仕舞うくらい”当たり前のことだししょうがないことだったのかもしれないが。
けれど、このシーンの主役はあくまでエアリスなのであってボスとの戦いじゃない。それに、どれだけ「悲しみ」が強くとも、どれだけ「怒り」が強くとも感情というのはやはり鮮度がある。その鮮度を保ち続けるようなボス戦ならばよかったのだが正直そこまでのレベルには達していなかったと思うし、何より30分以上もの間ユーザーはエアリスの生死についてのモヤモヤを先延ばしにされているわけでどうにも集中ができない
そして、30分にも及ぶラスボス戦からついに開放された私を待ち受けていたのは限りない「?」だった。
打ち切りですか?
ムダに長い作業を終えた後プレイヤーは3つのムービーを見ることになる。
1つ目は、FF7AC終盤のクラウドとザックス背中合わせシーンを彷彿とさせるような精神世界でのクラウドエアリスの背中合わせ会話シーン
2つ目は、現実世界に帰還後クラウドがエアリスを抱え話しかけ、彼女がそれに笑顔で応じるというシーンだ
多分、プレイヤーの殆どはそこでこう思ったはずだ「やった!助けられたんだ!」と
けれど、その直後に流れる3つ目ののムービーで私達は唐突にエアリスの死を知ることになる。しかも「パーティの重苦しいリアクションから感じ取る」という非常に遠回しな方法で
エアリスが刺されてから30分間モヤモヤとした気持ちをずっと抱えながら運命を変えるために、彼女を守るために戦い続けた結果がこれ?
運命の壁を超えてから数えるなら45分以上もの間プレイヤーを弄んだ結果がコレですか?
もうここまで来ると悪い意味で言葉が出ない。
なぜこうも逆張りをするのか、なぜこんな打ち切りのような終わり方をしたのか、なぜ水葬をカットしたのか、
4年前の前作から散々引っ張った挙げ句、引っ張り過ぎて最後の最後で飽きたちゃったんですか?
エアリスはもうしゃべらない…もう笑わない、泣かない、怒らない。 おれたちは…どうしたらいい?この痛みをどうしたらいい!? 指先がチリチリする。口の中はカラカラだ。目の奥が熱いんだ!
上のセリフもカットされていたけれど、エアリスの死はプレイヤーの心を引っ張るための玩具じゃない、ましてや「ハラハラ・ドキドキの見せ場」とかいう単なる盛り上がりのためのイベントなどでは決して無い。人の心がないのか?
燦々たるこの悪行。どう償わせてくれようかッ?
…
はぁ
なんだか、総じて「エアリス離脱イベント」を頑張って盛り上げ祭り上げようとした結果、とことん失敗した感をとっても強く感じる
見える!話せる!なんだこれ!
そしてエンドロール後、悲しみと落胆そして限りない失望に身も心もえぐられた瀕死状態の私にリバースはトドメと言わんばかりにリミット技を放ってきた。
忘らるる都後、セフィロス本体が埋まってる北へいざ行かんとするクラウド一行のシーンという場面。スクエニお得意のプリレンダムービーだ
なんとそこでは、クラウドと死亡したはずのエアリスが普通にお互いを認識して話しているのである。
それは原作が大切にした「命の尊さ」が完全に失われた瞬間だった。
なーんだこれは、喪失感も命の重みも全くなんにもないじゃないか
「FF7にはエアリスの死が欠かせないんだーっ」という訳では決してないけれど、彼女の死があったからこそ「命の尊さ」というテーマがより立体的になるのだと思うし、それに彼女の死を超えるほど(彼女の死がなかったとしても)のテーマテリングがFF7リバースにあったかと言われると無かったと思う。
一体何をしたいんだろうか?
というか最近のスクエニはFF7リバースのみならず、FF10-2.5(F10-3)やFF13-2、FF15、FF16、KH3なり命の特売セールがすごい。主人公を殺せば、存在を抹消すれば、曇らせればそれは「素敵で重厚な物語になる」と思ってるんじゃないだろうか?
昔からFFは仲間が死ぬ事はあったし別にこの頃に始まった話ではないけれど、最近の「離脱」は中身がなさすぎる。勝手に時詠みして死ぬ妹とか、(後付でなかったことになったから良いものの)急に10年ぐらい時が飛んで急に「やっぱつれぇわ」とか、主人公の生首とか…etcもういい加減飽きてくれ。
そろそろ、ミストウォーカーからあの人を外部監修として招いたほうが良いんじゃない?
劣化
さて
ダラダラと文句をたれてきたが、もしかしたらこれはただ私の感性が劣化したという話なのかもしれない。いや、少なからずそういう面もあるのだと思う。
FF7原作に私がはじめて触れたのは思春期真っ盛りの中学2年生の時
また、同作は私史上2番目にプレイしたFINALFANTASYでもある。
つまりFF7は私にとって「思春期×2番目」という思い出補正の塊のような作品なのだ。
「思い出補正」それは何よりも強くそして純粋なアルテマウェポン
ここまでの文で「原作が」「原作だと」という文言が馬鹿みたいに多く登場したのもそれが原因。FF7原作は私にとってゲームという垣根を超えた大切な思い出のひとつ。20代前半にして将来有望な老害っぷりだと我ながら思う。
例えば、もしFF7リバースがFF7のリメイクタイトルではなく完全新規作品としてリリースされたタイトルだったら?FF七式だったとしたら?多少グチは言うかもしれないが、ここまで長文でネチネチ言うことはなかっただろう。
原作という今も尚私の心の中で輝き続ける伝説的な比較対象がなかったとしたら、私は間違いなく今作に「傑作」という言葉を送っていた。
また、この老害化をもっと詳しく分析すると強烈な思い出補正の他にもう一つの可能性も浮かび上がってくる
それは、グラフィックの進化だ。
「なんだ、こいつほんとに老害か?」と思われたかもしれないけれど、「グラはPS2」で十分とかそういう事をいいたのではなくて
ゲームの情報量が増えたせいでプレイヤーの想像力に任せる部分がどんどん少なくなっているという事を言いたいんだ。
左下の写真を見てもらえればわかると思うけど、原作は本当にポリゴンポリゴンしている。しかもキャラクターボイスだって無い(戦闘中にハッとかウッも言わない)。
FF7はFF6までのドットから3Dへの一新がなされた作品だ。平面から立体へ、しかもムービーを挿入することも可能になった。故にプレイヤーが得る情報量はそれまでと比べ格段に増加した。
とはいえ、その情報量も右下のような現代のタイトルに比べると数百分の一。情報が増えたとは言え未だプレイヤーは半ば小説のように彼らの物語を自分の頭の中で補完をする必要があった。
でもだからこそ、プレイヤーは彼らと一心同体になることができたのではないだろうか?
例えば、原作のジェノバ=LIFE戦後はパーティメンバーがエアリスの亡骸を目の前にリアクションをとるというパートがあるのだけれど、そこでは泣き声もセリフもない。ただポリゴンモデルが動きBGMが流れているだけ、視覚的にも聴覚的にも様々な情報を与えてくれる現代のゲーム基準で見るとなんだか無機質な光景に見えるかもしれない。でもそれなのに、現代以上にキャラクターの感情がダイレクトに伝わってくるのだ。それは情報量の少なさを無意識的にプレイヤーが自らの心でそれを補っていたからに他ならない。
髪の毛の一本一本、肌の質感までをも描写できる現代のゲームの表現力を、そしてハードの性能をもってしても1997年のポリゴン以上のものが生み出せていない。これは真不思議なことだ。
しかも、更に始末が悪いのはFFは「リアルなグラフィックこそ志向」的な主義思想がナンバリングを追うごとにどんどん肥大化してきたシリーズでもあるということだ。もちろん120%完成された秀逸なシナリオがあるうえでグラフィックに凝るのは別に構わないけれど、ボロクソなシナリオをとんでもグラフィックで表現してもそれはゲームを良くするどころか返って大きなマイナスになってしまう。
しかも、最近はそういった自慢のグラフィック部分もおよそ平均的な範囲に収まってきてしまっているし、なんなら去年発売されたFF16は9年前のFF15より劣化してたよね?(ゲームエンジンやら開発期間やら制作環境が全く違うというのもあるけれど
けれどFF16の「華麗なトレーラーを作る」のではなく「ゲームを作る」という方針はとっても素晴らしいことだったと思う、その調子でFF17を作っていただければこの悪しき伝統をある程度根絶できるのじゃないだろうか
・
なんだか「過去作すごい!!今のゴミ!!」と聞こえるかもしれないが、決してそういうわけではない。
例えば悪名高いFF15。「本当にファイナルになりかけた」だの「おにぎり」だのひどい言われようだが、私はFF15が大好きだ。それはもちろん「思春期×最初にやったFF」というFF7を超える強力な思い出補正がかかりまくっているとは思うが、私は心の底からFF15を過去作に並ぶ素晴らしい作品だと思っている。
まぁ正直に言えば、ゲームのみならず映画やら小説やらたくさんの物語に触れた今、FF15のシナリオを見返してみると最後の方は本当にひどいものだけれど、(それは後付とは言え)小説で綺麗サッパリ作り直され素晴らしいものになったのだし、学校とイオスの往復を送っていたあの日々、王子たちの旅情は私の大切な思い出だ。それに何より「ファントムソード召喚」は中学2年生の私にはクリティカルヒットだった。あー恥ずかしい
だから「思い出の中でじっとしていてくれ」と言うわけじゃない。「挑戦」こそがFFの持つ大きな魅力の一つ、私は今でもFFと名のつく新作が発表されるとすこぶる胸が高鳴る
でも、思春期という人生において最も多感な時期にFF7・8・9、パラサイト・イヴ、ゼノギアス等の旧スクウェア黄金期タイトルをプレイした一人のファンとしては、現在のFFシリーズの現状に何かしら思うところがあるのも事実。
どうせFF7リメイクプロジェクトの次作はまた5年ぐらいかかるのだろうし、FF17は希望的観測で見ても2033年とかだろうか?中学2年でFF15に出会って大学生になった今、ナンバリングが1しか進まないとは思わなかったよ。
おしまい
ふう。
書いていたらなんだか荒ぶる気持ちが静まってきた。はあ。なんでこんなメチャクチャなことしちゃったかな
あそこまでしておいて助けられないんかい
まぁ、でも多分あれでしょ?「エアリス生存ルートと死亡ルートに世界が分岐した」とかなんでしょ?
だとすれば、あんな急な場面転換でエアリスが死亡したとされた理由も死後もまるで生きているかのように会話している説明もつく。クラウドは古代種の神殿でライフストリームに落ちたことでセフィロスやエアリスと同様、他の分岐した世界を認識することが可能になりさらに上位のコマンドである「他世界への干渉」まで行えるようになったんじゃないかな?そうすればクラウドのみがエアリスを認識しザックス世界線の空の亀裂が見えることも、セフィロスがクラウドを贔屓する理由もぜーんぶ合点がいく。
そういう風に考えたらなんだかFF7リメイクプロジェクトの命の軽さも少しは許容できる気もする?。。。
でも、そうだったとしても水葬をカットした理由はほんとうに謎。もしも、あえて水葬をやめたのなら次作で復活イベント的なエアリス生存系の何らかのイベントが用意されているのかもしれないけれど。もしそうなのだとしたら公式の「コンピレーション作品に齟齬が生じないようにする」という発言が嘘になってしまうし、そのシーンがカットされただけで水葬自体はしたのかもしれない。
もしかしたら、エアリス復活イベントを用意するためにというかコンピFF7の様々な矛盾点を解消するためにマルチヴァース設定を作ったのだろうか?そうすれば確かに「齟齬は生じない」もんね
もっと、もしかしたらサガフロワープをしたのだろうか?そうならばエアリスが「存在する」ことに関しては全く問題がないような気がする。でもエアリス離脱イベントは発生してしまっているわけで辻褄が合わない。
もっと、もっと、もしかしたらあの透明なマテリアが実は死者と生者をつなぐ異界を発生させるスフィアだったりして。。。古代種の神殿のエアリスの祈りはどこかしらFFXの異界送りを思わせるものがあったので、次作はFF10との匂わせも?
もっと、もっと、もっと、もしかしたらFF10リメイクが?。。。
はあ
現実逃避はもうやめよう。公式が「リバースはこういうのものなんですぅ」と出してきたのだから、これ以上文句を言っても仕方がない。
最後以外は本当に素晴らしい最高のリメイクだったのだから。
前作同様リバースも今後何かしらのDLCが出るだろうし、そこでいくつかちゃんとした回答がほしい。DLCの主役はぜひともヴィンセントでお願いします。